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再び生まれる

再び生まれる

定義: 再び生まれることには,水のバプテスマを受け(『水から生まれる』),神の霊によって生み出され(『霊から生まれる』),こうして,神の王国にあずかる見込みを持つ神の子となることが関係しています。(ヨハネ 3:3-5)イエスはそのような経験をされ,イエスと共に天の王国の相続人となる14万4,000人もそのような経験をします。

クリスチャンの中のある人々が『再び生まれる』ことはなぜ必要なのですか

神は,限られた数の忠実な人々が天の王国に入ってイエス・キリストと共になることを意図されました

ルカ 12:32: 「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」。

啓示 14:1-3: 「わたしが見ると,見よ,子羊[イエス・キリスト]がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が……立っていた。……彼らは……地から買い取られた(者たちであった)」。(「天」の見出しの336,337ページの項参照。)

人間は血肉の体のままでは天に行くことができません

コリント第一 15:50: 「兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません」。

ヨハネ 3:6: 「肉から生まれたものは肉であり,霊から生まれたものは霊です」。

『再び生まれて』神の子となる人々だけが天の王国にあずかることができます

ヨハネ 1:12,13: 「彼[イエス・キリスト]を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から生まれたのである」。(『彼を迎えた者たちすべて』とは,キリストに信仰を置いた人々すべてを指しているのではありません。11節に示されている事柄[「その民」,ユダヤ人]から,ここでだれのことが述べられているかに注意してください。人類の中の他の人々にも同じ特権が差し伸べられましたが,それは「小さな群れ」に対してだけです。)

ローマ 8:16,17: 「霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。さて,子供であるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人なのです。ただし,共に栄光を受けるため,共に苦しむならばです」。

ペテロ第一 1:3,4: 「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなた方のために天に取って置かれているものです」。

それらの人々は天で何を行なうのですか

啓示 20:6: 「彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼と共に王として支配する」。

コリント第一 6:2: 「あなた方は,聖なる者たちが世を裁くことを知らないのでしょうか」。

「再び生まれ」ていない人は救われないのですか

啓示 7:9,10,17: 「これらのことの後[使徒ヨハネが,『再び生まれる』人々,すなわち霊的イスラエルを構成して天でキリストと共になる人々の数について聞いた後。ローマ 2:28,29,およびガラテア 3:26-29と比較],わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります』。『み座の真ん中におられる子羊[イエス・キリスト]が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる』」。

クリスチャン時代以前の多くの信仰の人々の名を挙げた後,ヘブライ 11章39,40節はこう述べています。「これらの人々は皆,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。(ここで言う「わたしたち」とはだれのことでしょうか。ヘブライ 3章1節は,それが「天の召しにあずかる人たち」であることを示しています。ですから,クリスチャン時代以前に信仰を抱いた人々には,どこか天以外の場所での完全な命の希望があるに違いありません。)

詩編 37:29: 「義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」。

啓示 21:3,4: 「見よ! 神の天幕が人と共にあり,神は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。

神の霊を受けていても「再び生まれ」てはいないということがありますか

バプテスマを施す人ヨハネに関してエホバのみ使いはこう述べました。「彼は,まさにその母の胎にいる時から聖霊に満たされる」。(ルカ 1:15)それでもイエスは後にこう言われました。「女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です[なぜでしょうか。ヨハネは天に入らないので,『再び生まれる』ことは必要でなかったからです]。ただ,バプテストのヨハネの日から今[イエスがこのことを言われた時]に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標となって(い)ます」― マタイ 11:11,12

エホバの霊はダビデの上に「働き」,また,ダビデによって『語り』ましたが(サムエル第一 16:13。サムエル第二 23:2),聖書のどこにも,ダビデが『再び生まれた』とは述べられていません。ダビデは『再び生まれる』必要はありませんでした。使徒 2章34節が述べるとおり,『ダビデは天に上らなかった』からです。

今日神の霊を持つ人々はどのようにして見分けられますか

主要な見出し,「霊」の432,433ページの項参照。

もし,こう言われたなら ―

『わたしは再び生まれた者です』

こう答えられます: 『それは,いつか天でキリストと共になることをあなたが期待しておられるという意味ですね。……あなたは,天に行く人々がそこで何をするのか,お考えになったことがありますか』。それから,こう付け加えられます: (1)『その人々は王また祭司となってキリストと共に統治の仕事をします。(啓示 20:6; 5:9,10)そのような人々はほんの「小さな群れ」であるとイエスは語られました。(ルカ 12:32)』(2)『その人々が王になるのであれば,その統治を受ける民もいるはずです。その民とはどんな人々でしょうか。……それについて知った時,私がたいへん興味深いと思った事がここにあります。(詩編 37:11,29。箴言 2:21,22)』

『あなたは再び生まれた人ですか』

こう答えられます: 『「再び生まれる」と言っても,人によってその意味が異なっていることに私は気づきました。あなたはどのような意味で言っておられるのか話していただけますか』。

あるいは,こう言えます: 『私がイエス・キリストを自分の救い主として受け入れて,聖霊を受けているかどうかを尋ねておられるのですね。その点について私は,はっきり,「はい」とお答えできます。そうでなければ,私はあなたにイエスについてお話ししてはいないと思います』。それから,こう付け加えられます: (1)『ですが,聖霊を受けることについて言いますと,残念ながら,クリスチャンと唱えていても,その聖霊の証拠の欠けている人が多いことに気づきます。(ガラテア 5:22,23)』(2)『すべての人がこのような敬虔な特質を反映するようになれば,あなたもそのような地上で生きることを楽しまれるのではないでしょうか。(詩編 37:10,11)』

こうも言えます: 『私がキリストを自分の救い主として受け入れているかどうかという意味で言われるのでしたら,私はそれに,「はい」とお答えします。エホバの証人は皆そうです。ですが,私たちにとって,再び生まれるということにはそれ以上の意味があります』。それから,こう付け加えられます: (1)『再び生まれることについて話された時,イエスは,神の王国に入るためにその事は必要であると言われました。つまり,神の王国,神の天の政府を構成する者となるためです。(ヨハネ 3:5)』(2)『聖書は,神のご意志を行なう多くの人々が,その王国の幸福な臣民としてこの地上で生きることをも示しています。(マタイ 6:10。詩編 37:29)』

ほかの提案: 天的な級に属する人々はこのように答えられます。『はい,そうです。ですが聖書は,自分の立場について過度に自信を持つことのないようにと私たちすべてに警告しています。私たちはいつも自分を吟味して,神とキリストの求めておられる事柄を自分が本当に行なっているかどうかを確かめなければなりません。(コリント第一 10:12)』それから,こう付け加えられます: 『イエスはご自分の真の弟子たちにどんな責任をゆだねられたでしょうか。(マタイ 28:19,20。コリント第一 9:16)』